(茨城県波崎海岸・2021.2.18)
一瞬、風が止み、温かい早春の日差しが降り注ぐ浜辺の海岸-。穏やかな海の色、ぽっかり浮かぶ空の雲。シンプルな風景の中に、冬の心が少しずつ溶け出して行きます。
記憶の底から
世界が新型コロナに覆われ、根本的な処方箋がないまま、生活スタイルに変革を迫られた一年が過ぎました。新薬の開発・承認も進み、既にワクチン接種が進んでいる国もあれば、まだ日本のように国内承認が遅れ、やっと開始した国もあります。しかし経済の先行指標である株式は、出口近しとみてか異常に?上昇しています。商品市況をみても、昨年いちはやく回復した中国に牽引されるかたちで、鉄・非鉄等の価格も急上昇しています。
この状況をみて、ある人は、財政出動によるあぶく銭に支えられているので、すぐはじけるのではないか、と言う。またある人は、新型コロナの恐怖から解放されれば、これまで抑えられた需要が爆発し、供給サイドが対応できず、経済が加熱するのではないか、と言う。どちらにしましても、今、それ以上に問題なのは、以前この通信でも触れましたが、グローバル化経済の中でのデジタル化・コロナ禍を通して、富の偏在、それも特定の人たちに富が急速に集まっていく流れが世界中でおきていることではないでしょうか。
そのことが社会の不安定さを助長し、それまで世界の富を再生産していた資本主義の仕組みのありようまでもが問われ始めました。 最近の日経新聞の一面に「パクスなき世界」と題する特集の中でもこの点が触れられています。それを読んでいて、ふと30数年前の大学時代の教養ゼミナールで輪読していた、マックス・ウェバーの著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を思い出しました。内容はといいますと、誤解を恐れずいえば、資本主義の生い立ちは、私たちが、今、感じ、思い描いている利益至上主義的・拝金主義的な資本主義とは全く相いれないような、宗教的(プロテスタンティズム)な禁欲的職業倫理からうまれてきたというものです。
勤勉を、利益を生み出す源泉とし、利益を自己の享楽に使うのではなく、再投資を繰り返し(資本の再生産)、更なる利益をこの世に生み出し続けることが、この世の世界を神の意思の世界に近づけることになるというような話ではなかったかと思います。そのころは、なるほど、利益を生み、再投資し続けるには、精神的な、内発的な強い志向性がなければ、資本の再生産というシステムを、結果として持続可能なシステムとして作り込むことはできなかった、程度の理解をした覚えがあります。
さて、前述した資本主義のありようが問われているとの話にもどりますが、再生産し続ける富が、一部の人達への集中が続き、偏在が拡大するようであれば、先ほど触れましたように社会の不安定さが助長され、ひいては、我々が戦後その恩恵を受けていた、人間一人一人の尊厳を重んじる民主主義自身も揺らぎかねなくなります。資本主義のありようが問われているとの問いかけに、記憶の底から沸き上がった大学時代のゼミの記憶。時代錯誤と思われるかもしれませんが、資本主義の生い立ちにヒントがあるような気がしたのです。資本主義の生い立ちには宗教的な強い職業倫理感があった。ならば、民主主義を支えてきた現在の資本主義を健全なものに軌道修正すのに必要なのは、倫理感とか道徳感みたいな、「宗教的な」に代わる何らかのエートスが必要なのではないかと思うのです。資本の再生産を万民のため、社会的厚生実現のプロセスとの強いエートスの醸成が必要ではないのかと・・。
ところで、新聞を読んでこんなことに思いを巡らすきっかけになったのは、偶然ですが、その数日前に、取引の関係で、ある方の弊社への訪問があったことです。その方と会話を交わすのは大学生以来のことで、その方、実は私の大学時代の教養ゼミで、一年次違いで、共にマックス・ウェバー研究?をした仲間だったのです。その方の弊社への訪問が、私を30数年前の大学時代の記憶、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を思い出させたのです。忘れ去られた記憶が、あることをきっかけに私の「現在」に形を変えて蘇ってくる。なんとも不思議なことです。
最後に私事で恐縮ですが、このリサイクル通信3月号をもって、私の執筆は最後となります。3月・7月・11月号を初回より担当させて戴きました。つたない文章を今回まで読んで戴いた方々に心より感謝申し上げると共に、引き続きこの通信をご愛読くださいますようお願いして、最後の筆を置くこととします。