(奥武蔵長念寺 6月下旬)
今年は、新型コロナで外出が制限され、更にうっとうしい梅雨が重なり、一層気が滅入る日が続きます。気持が、内へ内へと向かいがちになりますが、気持ちをちょっと外に向けると、いつもと変わらぬ季節が巡ってきていることに気づかされます。
新型コロナVS人間
こんなタイトルで書き始めると、何やら人間が、コロナに対して、免疫学や医療技術、はたまた遺伝子技術を駆使して戦いを挑む話のように受け取られてしまいますが、ここでは、そのような難しい話ではありません。コロナに対する人の対応行動について、ちょっと感じたことを書こうと思いました。ここ最近、緊急事態宣言が解除されて以来、一日の感染者数が増加に転じています。諸外国と比べて感染者数・死亡者数が少ないとは言え、感染者数を示す棒グラフの右上がりは、何か不気味です。
マスコミや友人たちの、コロナ談義(重篤になっていられる方には非常に不謹慎かもしれませんが)を聞いていると、結局はインフルエンザと同じで、ワクチンがないだけで過剰反応をし過ぎる、とか。インフルエンザで毎年それ以上の人が亡くなっているではないか、とか。経済の縮小と感染による被害をもっと冷静に総合的に分析検討して対処すべきではないか、などなど、非常に理にかなった物言いをする方もおられます。が、ここではちょっと視点を変え、コロナに対処する政策的な話ではなく、純粋に行動学的視点にたってみてみます。すると、個々の感染環境とは別に、統計的見方をすると、感染し易い行動特性を有する人と、感染しづらい行動特性を有する人がいることがわかります。もうお気づきでしょう。先ほど世間が過剰反応し過ぎるとの見解をもっている方のお話しをしましたが、個人行動レベルでは、こちらの過剰反応の特性を有する人のほうが感染者が少ないことが想像されます。要は、言い方は悪いですが、神経質な人のほうが、感染環境へのアクセスも控え、家庭生活のなかでも、過剰に消毒や身体的清潔さを保とうするので、必然的に感染確率は低くなり、それを取り巻く集団もクラスターにはなりづらいと言えます。
話は飛びます。その昔、人間の祖先であるネズミのような小さな哺乳類が、(彼らからすれば)巨大な肉食恐竜が跋扈していた時代や、過酷な氷河期を生き抜いてきた能力のひとつに、この神経質的特性、言い方を変えれば、環境(外界)にびくびくする特性を有していたからだとの話もあります。このびくびくする特性が、か弱く、武器も持たない、小さな哺乳類が危険から身を守り、長い時を生き抜いてきた最大のツールであったというのです。ところで、哺乳類の末裔として、その遺伝子を引き継いできた現代人にとって、この特性は、この太平の時代にあっては、ストレスを生み出すだけの邪魔物以外の何物でもありません。しかし、今回の新型コロナのように、まだワクチン(武器)を持たない人類にとっては、このびくびく特性は、個人行動のレベルでは、生存のための隠れたツールと言えなくもありません
歴史の季節(散文的な独り言)
西洋合理主義思想から発展した科学は、科学技術の飛躍的進歩を通して、人類に物質的富みをもたらした。歴史は暫くの間は、権力を民衆の手中に収めさせることで、制度的にその発展を後押しさせて来た。やがて、豊かさの恩恵は世界規模で広がって行く。そのような中にあって、民族的・文化的背景から、権力が民衆の手からはなれ一部の集団へと移り始めた地域が台頭してくる。高度な権力組織と技術を駆使して、既存の覇権に戦いを挑んでくる。歴史は相克する覇権の中で悲鳴をあげ始めた。
人々は、なぜ歴史を学ぶのか?単なる知的教養・お飾りのため。現在の置かれた権力を正当化するため。歴史の発展史を振り返り、過去の祖先たちに敬意を表するため。それもあろう。だが、やはりその目的とするところは、此れからを見据えての、未来を構築するためにあると信じたい。歴史は繰り返すという。諦めに似た言葉でもある。破壊と建設の繰り返し。確かに人類史を眺めれば、その通り。平和な時代は長くは続いていない。でも今を生きている私たちは、そんな冷めた感覚で歴史を眺めることはできない。歴史の狭間から、亡霊のように悲痛な苦しみの声が聞こえてくる。大きな歴史の転換を、歴史の季節-。と呼ぶならば、今はその時かもしれない。未来の希望と平和を構築するために歴史はあると信じたい。