・・利根川河口/銚子大橋の朝-1月下旬・・
1月の早朝、千葉県側から茨城県側へ、銚子大橋をランニングしてみました。いつもは風強く、川面が波立っている冬の利根川河口。風が止み、朝日が橋の欄干を朱色に照らし出す瞬間、冷たい大気の中にも春の予感を感じさせます。
堪え性(こらえしょう)
それほど長距離を走るわけではありませんが、ランニングをしている時、必ず苦しい時間帯があります。そのような時、この苦しさから解放されたいという気持ちと、情けないな、もう1・2分頑張れよ。という声が自分の心の中で反響し合います。そのような時、今では余り使われなくなったこの言葉が、ふと脈絡もなく、私の頭のなかに現れます。本来は人の性格的ニュアンスが強く、忍耐強く頑張る、耐える、といった場合に使用される言葉で、ランニングのような動的な状況下での苦しさに耐えるような時に使う言葉ではありません。ですが、私の頭のなかでは、「諦める=堪え性がない」との等式が幼いときから成り立っているようです。
子供の時、近所の大人達の会話の中には、物事を途中で放り出す、あるいは、物事に対して長続きしないような人をとらえて「あの人は堪え性がないから・・・」というフレーズがよく使われていました。従ってこのレッテルをはられてしまうことの強迫観念が、私のなかで単純に「諦める=堪え性がない」との等式が成り立ってしまったと思われます。 さてその時の大人達の言葉の使い方について言えば、ひとを一方的に差別するようなニュアンスが漂っていましたが、言葉の持つ純粋な意味については、あながち古臭いといって切り捨てていいものかと最近は思い始めました。私が子供のころの大人達の生活環境は、今のような便利さはなく、今から比べれば多くの制約条件の中で生きていました(その当時の大人達は、当然そうは思っておりません)。ただ、我慢して耐えるしかすべがないことが、日常茶飯事であったので、言い方はおかしいですが、「堪え性」は生活の中に溶け込んでいました。
翻って、今日(こんにち)、便利さを豊かさの指標の一つとしてとらえ、便利さを追求してきた結果、われわれの生活の中から、「堪える」場面は少なくなり、「堪え性」という言葉も消えてしまったかのようです。もし今の若い人達にこの言葉を問うたら、きっと、「それってなに?・・そんなこと、意味あるの?」などの言葉が返ってくるか、はたまた真面目に返答をする価値のない、古臭い言葉と、一笑されてしまうかもしれません。
しかし、便利さに慣らされて、「堪え性」の筋肉が衰えた結果として、何がおこっているでしょうか?
生活の中の便利さの歯車が少しでもおかしくなると、直ぐに不満が噴出したり、あるいは、少しでも自分の思い通りにいかなくなると、キレルなどの現象が起きているようにも思われます。明治の文豪、有島武郎の小説『生まれ出づる悩み』の一説に、こんな文章が載っています。「・・こらえ性のない人々の寄り集まりなら、身代が朽ち木のようにがっくりと折れ倒れるのはありがちといわなければならない。・・」と。この「こらえ性のない人々の寄り集まり」を、家族→地域コミただ君の家では、父上といい、兄上といい、根性骨の強い正直な人たちだったので、すべての激しい運命を真正面から受け取って、骨身を惜しまず働いていたから、曲がったなりにも今日今日を事欠かずに過ごしているのだ。ュニティ→社会→国家、などと言い換えると、この言葉、古臭い言葉として一笑されてしまうような言葉でもないように思われます。「堪える」筋肉が衰えて、みんなが好き勝手にしだしたら、その社会は社会としては成り立たたなくなってしまうことでしょう。
さて、話は変わりますが、最近・・、既に読んでいる、あるいは見た方も多いと思われますが、丸山貴史(著)・今泉忠明 (監修)の『わけあって絶滅しました』という本があります。28万部のベストセラーとなり、色々なメディアでも取り上げられました。この本では70種類の絶滅した動物たちが登場して、絶滅した生き物自身が、自分たちが絶滅した理由を面白おかしく語っています。その中に、カンブリア紀中期(ざっくりと5億万年ほど前)に絶滅したオパビニアという身長7㎝ほどの生き物のことが書かれていますが、この生き物の絶滅理由がおかしい。オパビニア自身が語るには、彼は(彼女は)、いろいろな、個別的には便利な機能を「デコリ」すぎて絶滅と、ご自身を語っています。 数十億年後、地球上のある生き物が、ホモ・サピエンスは便利さを追求し過ぎて絶滅したと、ホモ・サピエンスをして、語らしめているかもしれません。或るいは、脳が大きくなり過ぎて絶滅したと・・(笑?)