(所沢航空公園のケヤキの木もそろそろ冬の装い)
晩 秋・・・・
霜⽉や痩せたる菊の影法師(⼦規)何度となく当来した台風をも、11 月となると静まりかえり、朝晩は急に冷え込んできました。大気は湿度が低くなり、子規の句ではないですが、景色の陰影が、ぐっと濃くなり始めました。こうなると不思議に冬の到来を強く感じはじめます。
未 来 予 測
ちょっと、眉唾なテーマです。なんで、こんなテーマで・・ということですが、たまたま、役職員の間で、経済動向とか相場動向の動きで雑談しているときに、直観を信じるか、信じないかの話で盛り上がったことがきっかけです。蛇足ですが、その時の結論は、直観というものは確かにある。但し、それは、単なる行き当たりばったりの「感」とは違うのではないか。本来の直観とは表層の合理的意識とは別に、その人の潜在的思考の中で、膨大な各種情報が瞬時の内に合理的に処理がなされ意識上に噴出してくるといった現象ではないのか、との結論に達しました。話の最後に、ある役職員が、ポツリと、「直観を磨くには、単純な話し、毎日、自分の予想とその理由をメモして、結果とを照合することを繰り返せば、多少磨かれるのではないの・・・」
( 思 考 実 験 )
さて、その役職員の「ポツリ」を聞いて、私たち凡人にも多少なりとも未来を予測するツールみたいなものを持つことができないものか、などと考え始めました。未来を予測するなどと大胆なことは無理でしょうが、現在から数か月先を展望することは、日常生活あるいは業務の中にでは行っていることです。要はその精度をどのように磨いていったらよいかということです。確率を高めていく方法はいくつかあるように思えます。そこでヒントになったのは前述の役職員の「ポツリ」です。私たちが日常の活動の中で「できそうに思える」事は、事象の結果を、過去の時点における自分の予測・展望と比較し、総括・清算する習慣をつけることでしょう。
過去から現在をどのように予測・展望し、現在をどのようにイメージしたか。時の評論家と同じように、その時々で色々はことを考え・予測しますが、総括・清算がほとんどなされないのが日常でしょう。精々当った、当らなかった程度の感覚でやり過ごしている、あるいはそれすらも意識していないのが普通です。そこで一歩踏み込んで、その違いはどこにあったのかを自分なりに考える作業を習慣化してみることでしょう。さて作業の方法ですが、当然、合理的な数字を探し出し検証するといったことも求められますが、私たち素人には難しく、また時間を確保する必要もあり、余り現実的ではありません。そこで、新聞やインターネット、テレビ等の情報から結果を導いた要因をイメージする程度ならば可能でしょう。そしてどの要因のバイアスが最も強く作用して現在の結果を招いたかの感触まで把握できれば良いとします。当然複数のバイアスが働くこともあるでしょう。
そして次に、今度は自分自身が過去において展望した現在との違いをみてみる。その場合、留意する点は、その違いが到達水準の違いか、方向性の違いかを見ることが第一です。到達水準程度の違いなら、自分の思考プロセスに大きな欠陥は無かったと言えます。方向性が違っていったら謙虚に過去に遡って何を見誤ったのかをみることです。例え予期せぬ事柄が勃発したからだとしても、その予期せぬことは、日頃の情報のなかで本当に予期せぬ事柄だったのかを自分に問いかける謙虚さも必要です。また実際、予期せぬことが起きたとしたら、そういうことも起こるのだという思考回路を作り、そこで自分の思考プロセスの欠陥を補っていきます。
そして、最後にもう一つ留意する点があります。自分の考えの癖、思考の癖みたいなものです。単純に言えば、物事を悲観的にみるとか楽観的にみるとか、あるいは、物事・変化に対にする自分の思考の過敏性・鈍感性とか、あるいは事象に対する好き・嫌いとか等でしょうか。その場合は、出てきた結果を再度、自分の思考の癖に照らし合わせて割り引くとか、あるいは割り増すとかの修正をかけます。なぜなら、自分の思考プロセス全体に多分に自分の癖のバイアスがかかっていると考えるからです。さてさて、こんな思考作業を習慣化し、繰り返すことで、近未来を予測する精度を高めることができるかもしれません。あるいは、冒頭の直観などもこんな思考実験を繰り返すことで、研ぎ澄まされるかも知れません。ただこれも一種の仮説・・・・?