晩 秋・・・私がまだ、幼かったころ、私の祖母はこの季節になると、決まり文句のように、「この季節は、もの悲しくていやだねー」と、誰に語るでもなく、呟いていたのを思い出します。紅葉で彩られていた木々が化粧を落とし始めるこの時期、冬の前触れを自分の人生の終末と重ね合わせていたのかも知れません。若い時は、命とか生命について、抽象的な概念では理解していても、心や衰えていく身体的感覚として理解するのは難しいことです。私もそのころは祖母の単なるボヤキぐらいとしか思っていませんでした。
自然環境保護への生命観的アプローチ
自然環境の保全とか保護について考え・行動する上で、命とか生命の意味を知ることも重要な気がします。自然環境の保全という言葉の意味合いは、人間のより良い生活環境を維持するには自然環境とのバランスが重要であると言うことでしょう。そこには、何か人間が主人公であって、動植物を含め自然環境は人間が分析しハンドリングする従属的なものだという西洋合理主義的匂いを感じます。それも確かに環境へのアプローチとしての一つの考え方でしょうが、また別のアプローチもあるような気がします。
話は飛躍します。だいぶ以前になりますが、ある知人から、ある地方では一年に一度、牛か豚か忘れましたが、その地域で育てた家畜を住民の目の前で殺し、その肉を料理し住民全員で食するという習慣が残っているとの話を聞きました。その光景を想像して、子供にとっては残酷過ぎるなと思いましたが、同時にその地域に生きる大きな知恵も感じました。今の食生活においては、食べたい肉などは、毎日スーパーに並べられ、これが美味しい、これが新鮮だ、といって買い求めます。そのとき、誰もその先にあった、その動物の命については、全く心に止めません。
むしろそんなこと、いちいち考えていたらおいしく食べられないよ、言われますが、確かにその通りです。私も同じで想像すると眩暈を起こします。ですが、実は、そのことが、日常から生命の意味合いを奪ってしまったような気もします。前述の話は、一見残酷で、耐えられない人もいるでしょうが、一年に一度、生命というものと人が真剣に向き合うという重要な儀式であるように思われます。
まさに、目の前の手しおにかけて育てた生命を食することで、我々人間は命を繋いでいるという現実を体験させているわけです。環境を考えるもう一つのアプローチといったのはこのことです。命の継承とはこういうことなのだと厳しく見つめることによって、生命を労り、愛おしみ、共に命を生きるという気持ちが醸成されてくる。自然環境とは、物理的対象ではなく、人間も内包した生命連鎖の営みの空間であるとい自覚が基本的に必要でしょう。それを生命観的アプローチと言ってみました。
ギリシャ問題に見る
生産性の異なる国が単一通貨圏を形成するとなると、為替変動を気にせず、生産性の高い国から低い国へと物は流れ、生産性の低くい国は産業が育ちにくくなります。当然、当の国家の所得は増えず、国家の行財政資金は、国外に依存せざるおえなくなります。また金利水準自体も、国力の高い国にさや寄せされていますので、相対的に安い金利で借りられることから、自制がきかなくなります。
国民はと言うと、自分たちの国力を知ってかしらずか、国力の高い国と同じようなサービス(給付)を相変わらず求めるから始末に負えません。ギリシャ政府にはこのようになるまでに、サプライサイドを強化するための大胆な施策(構造改革)を行う時間があったはずです。国民への迎合のみでは国家は崩壊してしまいます。ただ他方において、国力ある国が自国製品を安心(為替リスクに怯えず)して売りまくり、その資金まで安い金利でファイナンスしたという構図も浮かび上がってきます。こうなると、一概にギリシャだけを非難するのはフェアーではないかも知れません。
しかし、事ここに及んで、一兆円を軽く超える脱税が蔓延り、高い福祉(給付)を求める国民的資質には、何かが欠け始めているようにも思います。それは社会を成り立たたせているシンプルな原則、法の遵守とか、公共の意識とか、倫理感とか、良心とかです。ギリシャのデルポイのアポロン神殿の入口には「汝自身を知れ」「度を超すなかれ」という古代ギリシャの賢人の格言が刻まれているそうです。饗宴が長く続くと人心から何かが失われ、それと共に国家が瓦解する。ここまでくると、何処かの国の近未来図を見るような気がしてきました